体に必要なもの 不要なもの
- 1 日前
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私が食にこだわっていること、例えば肉や魚をあまり食べないとか、鮮度や産地にこだわるとか、肥料や農薬や添加物のない食材を選ぶとか。そういう話をすると ”健康オタク” や ”意識高い系” に捉えられることがある。そして近寄りがたいと感じたり、何か説得されそうな気がしたりして身構える方が、いるのかもしれない、と感じている。
相手の意識や態度が変わるので、なんとなく私もそれを感じ取ってしまう。相手の感じ方や捉え方は自由なので仕方ない。しかし私自身の体感としては、自分は ”健康オタク” や “意識高い系” ではない、と自覚している。
そもそも”健康オタク” とか ”意識高い系”という言葉の、意味やニュアンスは、人それぞれ違うのかもしれない。けれど、おそらく一般的にはこうだろう。
(1)健康にとても強い関心がある。
(2)例えば、高額な健康食品やサプリメントを摂取している。
(3)学術的なエビデンスや権威ある方の発言を、一番大きな根拠としている。
私は、上記のいずれとも、少し違う気がしている。
ひとつひとつ、取り上げてみよう。
(1)健康へのとても強い関心
人並みに健康への関心はあると思うが、健康のためとか、健康になりたいとか、そういう感じではない。健康に関心や意識が向いているのではなく、カラダ本来の力を信頼し、カラダの声に素直に従っているだけ。強いて言えば、カラダ本来の力を信じ切ること、カラダの声を聴くことに、とても強い関心がある。
(2)高額な健康食品やサプリメントの摂取
高額な健康食品やサプリメントは、出来るだけ避けている。出来るだけ安価で、入手しやすいもの、継続しやすいもの、昔ながらの知恵や自然な手法を選んでいる。
ちなみに、サプリメントは、必要最小限。紆余曲折を経て、2026年7月現在、習慣にしているのはビタミンDを一日一粒だけ。もう四、五年は続けていると思うが、最近は時々飲み忘れたり、ごくたまに二粒にしたくなったり、ゆるやかである。
これはコロナ対策で始めた習慣。
ワクチン接種以外の方法として、医師が紹介していた三つの中で、最も安価で簡単な方法だったため、採用してみた。ビタミンDを一日の必要量の二倍摂取することで、免疫力が保たれ、コロナの予防になるというエビデンスがあるらしい。
実際に数ヶ月飲んでみた結果、効果を感じているため継続中。そして時々一定期間飲むのをやめてみて、どうなるか、カラダの変化を観察し、さらに続けるかどうかを決めている。
ちなみに、私はほとんど薬を飲まず、病院にも滅多に行かない。実際にどんな時に何を飲んでいるのか、どんな方法で症状を緩和しているのか、といった「私の健康法」は、近いうちに整理してみようと思っている。現在やっていることだけでなく、今まで試してきた様々な方法についても、記録として残しておいて、自分の健康に関するデータバンクが作れたらいいかな、なんて思っている。
(3)最大の根拠は、エビデンスや権威者の発言 上述のビタミンDのように、学術的なエビデンスは、ある程度参考にしている。しかし妄信しないよう、細心の注意を払っている。つまり実際にやってみて、自分に効果があるか、自分に合っているかを必ず確かめる。
また、発言者は、権威があるかないかという基準ではなく、私がその方の話を聞いてどう感じるかを、自分のココロとカラダに静かに問いかけ、最終的には自分の頭で判断する。言われたからやる、言われたから信じる、と鵜呑みにし、依存するのは、とても危険だと感じている。私のカラダを治すのは、医者ではなく私なのだから。
体に必要なものを取り入れる 空間や自然環境、接する人、ひいては集合意識、世界情勢。
さらには、太陽・月・星の運行や状態。
そういった影響を、私たちの体は知らず知らずに取り入れている。
だから、どんな衣服を身に纏い、どんな物を周囲に配置し、どんな部屋で暮らしているか。どんな道を通って、どんな職場で、どんな人に接しているか。 日頃どんな空間に身を置き、どんな情報に触れ、どんな気分で過ごしているか。 そういうことがすべて体に影響を与えているので、配慮が必要だということを、私は大きな実感、体感を伴って知ったと思う。
とはいえ、自分でできることは限られている。当然ながら、そんなマニアックな感覚を相手に理解してもらう必要はなくて、ある意味、手放している。全ての人が、私とは違う価値観や世界観に基づいて生きているのだから。
ちなみに、私とは違う全ての人、つまり目の前のあなたにも、会ったことのないあなたにも、ただただ敬意しかない。だって、私にはまだ見たことのない景色を沢山見て、体験しているのだ。もし一緒に同じ景色を見たとしても、見え方はその方の生き方だから、私には体験できない景色なのだ。
私の知らない世界への好奇心は、そのまま相手への好意と興味へ繋がる。
私はもっと体験したい。
他者の世界を知ることは、私にとっては擬似体験となる。
そして、自らの体験と様々な擬似体験から、自分が今、良いと感じたことを貪欲に取り入れる。そうやって、私の人生をより豊かにしていくことが、私らしい生き方なのだと感じている。
体に不要なものを排出する 不要なものを体から排出するとはどういうことなのか。
すぐに思いつくのは、スムーズな排便。つまり、腸の中をきれいに保つこと。
それから、汗、涙、鼻水などの分泌物。
皮膚の発疹、発熱、咳などの自然な体の解毒活動。
体内の不要なものは一箇所に集められ、凝縮されて、それが長年かけてがん細胞になるという医学的見解がある。私は真実だと感じている。
また「毒を吐く」という言葉があるが、ネガティブな言葉が体の外に排出されるということは、体の中にネガティブな想念や感情があり、それを体の外へ追いやる行為なのだろうと私は思う。その証拠に、愚痴を言ってスッキリしたり、ただ誰かに聞いてもらって楽になったり、思っていることを紙に書き出す方法が知られていたりする。自分の中にネガティブな想念や感情がほとんどないと、毒を吐くことはなくなる。
…………….
余談。
私が体験したエピソードを二つ紹介したい。
私がヨーロッパの子供たちに出会った時、彼らは率先して片言の英語で、自分たちの母語であるスロベニア語を教えてくれた。
私は驚いた。 なぜって?
ありがとう、美しい、幸せ、などのポジティブな言葉ばかりだったのだ!
どの子も穏やかで、優しく、ゆったりしていて、彼らの笑顔と、私たちを取り巻く素敵な空気感を、今でも鮮明に覚えている。
別の場所では、親子の会話や、先生と生徒の関係を目の当たりにする機会が何度かあった。例えばぐずったり泣いたりする子どもへの大人の対応は、日本では、大きな声で叱ったり、説得したり、という場面をよく目にする。
しかしヨーロッパでは、あるがままの姿を微笑ましく見守りながら、大人みんなが笑っていることが多かった。または抱きしめたり、子供の気持ちを引き出すために穏やかに質問をしたり。そんな場面をよく目にした。
文化の違いだろうか。
子育てや教育への考え方の違いだろうか。
大人の子供への対応の仕方の違いは、私にはとても衝撃的で、考えさせられた。
…………….
子どもたちに教わったポジティブな言葉たち。おそらく彼らも、大人からはポジティブな言葉を教わってきたのだろう。私の感性さんは、彼らの中にネガティブな想念や感情がほとんどないのかな、と捉えていた。
世界はつながっているので、戦争や争い事の波動は、知らず知らず私たちの体の中に入ってきて当然。本来自分の中には美しいものしか無かったとしても、周囲の影響で、いつの間にか曇ってしまう。そんな現実が、どうしても、在る。
だからこそ、体の中の不要なものを排出するという営みは、私は、「生きるための三大要素」の中でも最重要項目だと認識している。つまり浄化である。 なにをすればいいのか そうは言っても、私がやっていることは、誰にでもできるような当たり前のことが多く、それを根気よく毎日続け、何年も何十年も続けているだけのこと。
これがいい、と誰かに言われたり何かで読んだりして、知識として持っているだけでは、何の役にも立たない。ただ、脳内スペースが減るだけだ。 ほんの一つでも二つでも、しっかりと続けて自分のものにすることこそが、健康を維持するための秘訣ではないだろうか。
なんて、私のちょっとした独り言。もし耳の痛い話になっちゃっていたら、ごめんなさい。
私はつい最近まで、かなり頭でっかちなタイプだったので、脳内スペースばかりを消費し、疲れ切っていた、という自身の数多くの体験から、身をもって感じていることなのだ。
以前、自分は健康だと思う、と朗らかに語る年配の女性に出会った。その理由は、子供の頃から毎朝白湯を一杯飲む習慣を続けていることくらいしか思い当たらない、とのこと。
私は心から素晴らしいと感じた。おそらく40年、50年と淡々と続けてこられた、自分なりの習慣。そう、健康は ”習慣の結晶” なのだ。そして、どんな習慣が自分に合っているのかは人それぞれなので、こうしたらいいよと単純に勧めることもできない。言う必要もないのかもしれない。
それをあえてここで言おうとしている私も、オカシナ感じ。非常に矛盾を感じている。けれど、私は自分の特性や今までの人生を俯瞰してみると、自分の人生の役割というか、魂の方向性として、おそらくは “伝える人” なのだろう、という気がしている。 だから、こんなこと言っていいのかな、という葛藤を抱えながらも、もし “伝えたい” という衝動が湧き上がってきた時は、この場に書き残しておこうと考えている。 迷いながらも、こうして書いていることが、実はとてもここちよいから。 2026年7月12日 おひさまが顔を出した朝





