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MY HISTORY

今までのこと​​

札幌の豊かな大地に抱かれ、私は育ちました。

幼い頃から、私の中には少し変わった形の「個性」が芽吹いていましたが、周囲の温かな理解に守られ、のびのびと過ごすことができたと感じています。

 

社会に出てからは、保育や障害児教育の現場へ。そこで出逢った子供たちの純粋なイノチの輝きに触れ、多くを学びました。

ともに笑い、ともに泣くこと。
センス・オブ・ワンダーを研ぎ澄ませること。

保育という仕事は、私にとって、天職そのものでした。

人生が大きく動き出したのは、舞台芸術の世界へ飛び込んだときのこと。

「フィギュア・アート・シアター」との出逢いは、私の中に散らばっていた無数の宝石たちが一本の光の糸でつながるような、鮮やかな衝撃でした。

 

札幌で足かけ二年半の学びを終え、世間知らずな私は、早すぎるプロ宣言をしてしまいました。そして、理想には到底力及ばぬ我が身を突きつけられ、すっかり寝込んでしまったのです。

ある日私は、ああ、ここが一番底なんだなあという体感をしみじみ味わっていました。これ以上落ちることはないという、ここちよい安堵。あとは上がるだけだと思いました。一年間身を潜め、結果的に十分な静養にもなったのでしょう。これが「あるがままの自分」をまるごと受け入れるという私の生き方のスタート地点でした。

深い穴の底から、毎日少しずつ、ほんの少しずつ這い上がり、再び地上に立ち上がったとき、私は何ひとつ身に纏っていませんでした。そして「もっと学びたい!」という情熱ひとつで、ひとり、人形劇の本場・チェコへ飛びました。

初めての海外生活、それまでの価値観がひっくり返るような新鮮な驚きと感動、質の高い芸術体験。私は水を得た魚のように活力を得て、再び力強く泳ぎ始めたのでした。

 

この渡欧を皮切りに、その後は、フランスやイタリアなどにもご縁が繋がり、研鑽を積みました。数年間、日本と海外を行き来しながら、技を習得し、自分の表現を磨き、創作の実験を繰り返す日々。息つく間もないほどにパワフルでしたが、家族をはじめ多くの支えがあったからこそ、歩み続けられたのだと思います。

東京を拠点に、表現者としての生き方を模索した時期もありました。

わずか二年余りの月日でしたが、保育とアートを融合させた「アートシッター」としての活動や、古民家の管理人として地域とのここちよい繋がりを育む日々は、驚くほど濃厚で、刺激的でした。

けれど、父の病をきっかけに、東京生活は突然の幕を閉じます。 急遽札幌へ戻り、私は「生と死」という人生の大きな命題に、正面から向き合うこととなりました。それは、これまでの人生で最も多忙で過酷な時間だったかもしれません。しかし同時に最も美しい、かけがえのない時間でした。
大切な宝物です。

ところで、表現の場を広げるうちに、ふと気づいたことがあります。

「すべてのアートの土台にあるのは、日々の何気ない、豊かな暮らしそのものである」ということ。それからは、暮らしを丁寧に整えること、そして地域の人々と心を分かち合うことへと、意識が静かにシフトしていきました。

土を慈しみ育てることで、蒔いた種がのびのびと芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶ。

私自身の表現もまた、そのように自然なリズムでありたいと願うようになったのです。

コロナ禍という大きなうねりの中で、エコビレッジなどのコミュニティの必要性を感じ、自分の理想郷を創りたい、そのために既存のコミュニティから学びたいと思い立ち、日本各地を奔走したこともありました。

けれど、紆余曲折の末に辿り着いたのは、他でもない「私」という存在そのものを慈しむという、ごくシンプルな原点でした。

 

どんどん自然体になっていく自分自身を愛でながら、いつしか、私は、何者かになろうとする舞台から、そっと降りたような気がします。

私は、ちっぽけな、つまらない存在で

唯一無二の、何よりも大切な存在。

すべての人が、みんな、そうなのだ。

生かされているこのイノチを、私らしく、輝かせたい。それが私のアートと言えるのかもしれないし、言えないのかもしれない。もうどっちでもいい。

現在は、自身の「ここちよい暮らし」を淡々と紡ぎながら、そこから溢れ出す自由な表現を楽しんでいます。
のんびりとおひさまを仰ぎ、そよ風のここちよさを感じながら。

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