自然派ミニマリスト
- 6月12日
- 読了時間: 9分
更新日:6月19日
ことの始まり
私が初めて〈自然派ミニマリスト〉という名前を自分に贈ったのは、2022年の春だった。引っ越しの多い私が、今までの人生で最も好きな家に辿り着いた時のこと。不動産のホームページで条件を入れて検索したら、市内で一軒だけがヒット。すぐに内覧して、その足で不動産会社へ。夕方には申込書に記入していた。
大抵は、ホームページで何軒か候補を見つけると、まず実際に自分一人で外観を見に行く。そして良さそうであれば電話連絡をし、内覧へ進む。けれどこの時は、自分で見に行くステップを省略。電話した数時間後に、私は物件の中に居た。
部屋は何もかもが理想通りだった。実はこの家へ辿り着く直前に引っ越したばかり。つまり、私は札幌市近郊のほどよい田舎町に住み始めて、わずか一週間ほどであった。この、ほどよい田舎町のお部屋は、別の意味で理想的だったのだけれど、訳があって急きょ退去する必要に迫られていた。このエピソードは稀有な面白さに満ちているので、いずれ書きたいと思う。 この時点で、すでに話についていけなくなっている方も居ると思うのだけれど、これは背景説明みたいな感じなので、とりあえず読み進めていただきたい。
新居の申込後、ほどなく審査に通過した。しかし、入居まで一ヶ月近く待つ必要があった。そこで私は、入居までの一ヶ月弱の期間、目当ての部屋のお隣にあったシェアハウスに住むことになった。
気付いたらミニマリストに
計らずして、わずか一ヶ月の間に「三回の引っ越し」をするという、私史上最短の居住記録を作ってしまった。ホームレスになってフラフラしていた時期、海外で友人宅を渡り歩いていた期間もあるので、ここでいう「私史上最短」と言うのは、本拠地と自分が定めた住居において、という但し書きを添えておく。
非常に慌ただしい一ヶ月間ではあったけれど、おかげで私の荷物は極限まで減っていた。一回目の引っ越しの際に、軽自動車のミニカに積み込んで一人で引っ越しできるよう、大量の荷物を手放していた。お気に入りの冷蔵庫も洗濯機も、ベッドも、収納棚も手放した。
さらに、その前の家が田舎の戸建てだったため、大きなモノもあった。里山で野草酵素を作るために揃えた、大きな樽たち。電線を巻くための巨大な糸巻きボビンのような、木製オブジェたち。草刈機、大袋の土、各種プランターたち。全て欲しい方に譲った。
この段階で、一番かさばるのは布団だけとなった。しかし、人生史上最もお気に入りだったオーガニックコットンのふかふか布団は、二回目の引っ越しの際に手放した。ちなみに、この布団が、やむを得ない引っ越しの直接要因であり、私の人生を彩る笑い話リストに、堂々とランクインしてくれたエピソードである。
三回目の引っ越しで辿り着いたこの部屋は、天井が低めのワンルーム。たった一部屋。ところが収納が充実しており、特に料理が好きな私には嬉しい、システムキッチンと台所の大量収納棚があった。洗濯物を干すための専用の棒は、一番日当たりの良い居間の窓の前に、天井から吊り下がっていた。作り付けの簡易テーブルもあった。
一番気に入ったのは、横に長い、東向きの大きな窓。周囲に高い建物がないため、四階のその窓からは、札幌の街並みと、美しい朝日を毎日拝むことが出来た。そして真っ白い壁と床。その清らかな空間で、私は〈ここちよい暮らし〉をスタートさせたのである。

なぜ “自然派” なのか
なぜミニマリストの前に”自然派”という言葉がつくのかというと、それには私らしい理由がある。私の場合、単にモノが少ないだけではなく、極端とも言えるほどのナチュラル嗜好。そのナチュラル嗜好は、地球や宇宙のリズムの中で、自然界の生き物たちと共存しながら、私自身も自然体で在る、というスタイル。
つまり、自然派の ‘自然’ には三つの意味がある。
一つ目は、ナチュラル(natural)。例えば自然素材の衣類や小物を好み、オーガニックや無肥料の食材、循環する自然なリズムを好むという意味。
二つ目は、植物や鳥など地球の自然(nature)が大好きで、地球環境に配慮したモノや思考を好むという意味。
そして三つ目は、私自身が自然体(Be myself)で、無理のない、柔らかな生き方をしているという意味である。
今までの私
元々私は物持ちが良い方で、まだ使えるからと取っておいたり、直して使ったりと、モノを大切にするタイプだった。舞台芸術の世界に十年ほど居たので、廃材や不用品も、素材や材料に見えてしまい、緩衝材のプチプチやトイレットペーパーの芯なども大量に溜め込んでいた。また、出かける時は、あれもこれも必要になるかもしれないと思い、いつも巨大な荷物を持ち歩き、結局ほとんど使わずにそのまま持ち帰る人だった。
物心ついた頃から整理整頓が趣味のようになり、いつも部屋のモノを片付けたり仕分けたりしていた。作業が楽しくて、しばしば時間を忘れて夜中まで没頭した。しかし、人には良い時も悪い時もある。私も、自分の状態が良くない時期には全く手付かずになり、物量の多い部屋は、徐々に散乱していくのだった。
一般的なミニマリスト像
一回目の引っ越し前は、移住先でまちづくりプロジェクトのメンバーとして昼夜問わずフル稼働していた。が、職場の経済事情への気遣いから、自主退職した。ご厚意で住み続けることも出来たけれど、すでに地域住人との絆があり、退職後も何かと頼りにされてしまうのは目に見えていたため、転居せざるを得なかった。私は札幌市内の自然豊かなエリアへ移った。目まぐるしかった仕事の疲れと、冬の大雪。これ幸いと、私はのんびり引きこもり生活をしていた。気ままに、ネット配信の映画や様々なYouTube動画を見て過ごす日々。とりわけ私の心を捉えたのは、有名なミニマリストの方々の発信。結構沢山見たと思う。 でも、何だかしっくりこなかった。
多くのミニマリストたちは、面倒くさがりであると自認しているようだ。掃除の手間を省くためにロボット掃除機を使っていたり、洗濯の手間を省くために立派な乾燥機付き洗濯機を持っていたりする。料理の手間を省くために食事の代わりにサプリメントを大量摂取している方、毎日決まったメニューをレストランやコンビニで選んでいる方もおられて、大変驚いた。
彼らの理屈も分かるため理解はできるのだけれど、私とは全く感覚が違うと思った。様々な価値観や生き方があるので、なるほど、と見識は広がったのだけれど。ただ、私とはかけ離れた生き方をされているミニマリストの方が多いな、という印象を受けた。
自然派ミニマリストとは
私の生き方は、〈シンプル〉〈マイスタイル〉〈丁寧〉という言葉に近い。シンプルな暮らしをするために、極限までモノを減らす、容積を小さくする、ミニマル志向でありながら、マイスタイルという条件付き。マイスタイルというのは、先ほど説明した、ナチュラル嗜好のこと。自然素材(natural)、自然環境(nature)、自然体(Be myself)の三要素が三位一体となって、私という存在を構成している。加えて、かなりの合理主義でありながらも、心身を整えるための丁寧な暮らしを、何よりも重んじている。このようにして、私らしい、唯一無二のミニマリスト像が浮き彫りになってきた。
なので、例えば一般的なミニマリストにとって必需品であると思われる立派な洗濯機を、私は持っていない。手洗いしている。洗濯機を置くスペースを有効活用しており、手洗いのここちよさを満喫している。
もちろん手間も時間もかかるため、それらの手間と時間がここちよいと感じなくなったら、迷わず洗濯機を入手するだろう。実際、今の部屋に移ってくる前に住んでいた家では、私は一年半の間、洗濯機のお世話になった。こうすべきという義務感も、ずっとコレがいいという執着も手放しているため、気が変われば転向が早いのも私の特徴。
また、今使っている冷蔵庫は大変小さい。冷凍庫なし、超静音のキューブ型。冷蔵庫を持たない時期もあったが、昨今の猛暑の影響で、小さい冷蔵庫は必須と考えるようになった。毎週、無肥料の農家さんから宅配野菜が届くので、冷蔵庫で保管している。
冷蔵庫の必要性も、状況や環境が変われば、それに応じて変化すると思う。もし毎日ほしい野菜が手に入るとか、例えば畑があるとか、近所に直売店があるとか、お裾分けして頂く機会が多いとか、そうなると冷蔵庫も不要になるかもしれない。
大きな冷蔵庫がない代わり、「干しネット」は必需品。食べきれない野菜や近所で採取した野草は、干して保存食にする。野菜クズも干してから捨てる。ただこれも、もし広げて干せる場所がある家へ引っ越したら、不要になるかもしれない。
私に必要なモノ、必要なコト、必要な考え方は、私の生活スタイル、住環境、その時の私の生き方に直結していて、自在に変化する。そして常に、自分にとってのミニマル(最少)を追求している点において、〈ミニマリスト〉という言葉は私にピッタリだと感じている。
自分にとってのミニマルとは。その問いは、生きている間ずっと続くのだと思う。ここちよさに包まれて、ここちよいモノを慈しみ、大切に使い続ける。そして違うと感じたら、軽やかに手放す。その判断基準は、風とともに移り変わる。
さらに手放して
かつて、捨てることが良いという価値観に影響を受け、捨てられない自分を責めてしまったり、逆に捨てすぎて困ったこともある。または、ミニマリストというある種ブランドのような名称に憧れ、彼らの真似をすることで、私も彼らのようにキラキラと輝けるような気がしていた時期もある。そういうプロセスを一つひとつ体験しながら、いつも ”自分はどう在りたいか” を探求してきた。
その結果、今の私は、モノを減らすことへの執着も、ミニマリストという名称も、シンプルでありたいという欲求、見栄、承認欲求も、有名人の生き方や流行をなぞることで得られる安心感も、、何もかも全て手放した。
今、私はようやく、私自身になれたような気がする。いや、きっと一生、本来の私、つまり魂の私になることは出来ないだろうけれど、そこへ向かう覚悟が出来たというか、そう、その道を歩み出したことだけは、確かな事実だと思う。
だから本音を言うと〈自然派ミニマリスト〉と名乗ったり、発信したりするのも、少々はばかれる。そういうことには、”今まで感じていたような意味” を感じなくなった。実際、こまめにSNSでも発信していた私は、約一年の間、ピタリと口を閉ざした。言ってはいけない、とさえ感じた。こんなことは、まさに”人生初” で、我ながら戸惑っていた。そういう沈黙の時期を経て、その遠慮や躊躇も手放していいや、という軽やかな風が吹いた。
今、私は、あるがままに、気楽に、まるで親しい友に話すように、この場をお借りして話してみようかな、と感じている。気が乗れば話すし、別に話さなくてもいいし。そんなどっちでもいい境地でありながら、自然派ミニマリストという名前や響きが好き。それが今の私。
2026年6月12日のこと。




