あ よもぎ
- 13 時間前
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あ よもぎ
ひと月ほど前からずっと心の片隅に棲みついていた、よもぎ。ついに見つけた。
彼らはいつも肩を寄せあい、群れをなして生きている。小さな集落。こんもりとした、イノチの森。私は彼らを驚かせないよう、おもむろに膝を折り、目線を合わせていく。彼らは茎に白くてふわふわな産毛を纏い、大きな葉には朝露をたたえ、はにかむように佇んでいた。
私はそっと右手を伸ばし、天辺を優しく手折(たお)り、匂いを嗅いだ。懐かしいかほりがふわっと漂い、私は深呼吸した。そして森の中へ指先を忍ばせ、茎の太さや状態を確かめる。もう丈の伸びた子も多いので、上部の柔らかい部分を指先ではさみ、微かな手応えで硬さを感じ取る。ありがとうね、私は小さく呟いた。
ゆらり、ゆらりと歩を進めながら、この小径の左へと視線を走らせる。この小径は、川沿いの遊歩道。川沿いといっても、川は朽ち葉色に塗られた柵の下。もし目線ほどもあるこの柵を超えられたとしても、そのすぐ下にはコンクリートの石塀が崖のようになっており、飛び降りるには高すぎる。たとえ飛び降りられたとしても、その下は土砂が溜まって出来たと思われる陸地。植物が気ままに根をおろして陸地を支えている。着地した途端にズブリと埋まるかもしれない、そんな危うさを醸し出している。おてんばな私でも、さすがにそこまでの冒険をするには、少しばかり時を重ねすぎた。向こうの石塀までは四メートルくらいだろうか。柵もあり、塀もあるため、気まぐれな若者でも降りようとは思わないだろう。川の水はわりと勢いがあり、陸地を交わすように蛇行しながら、さらさらと一定のリズムを奏でている。
足元の小径は、中央に人ひとりがなんとか通れるだけの細い土の道。奥に行くにつれ、土は草に見え隠れし、次第に、なんとなく下草が踏み固められただけの、まるで獣道だ。そんなことを考えていたら、あ、と私は立ち止まった。「鹿の置き手紙」があった。緑と茶色のまだらな色彩に身を隠しながらも、しっかりとした存在感で独自の集落を作っている。ここにも、あそこにも。ときどき離れにも。点々と。私は慎重に避けながら、歩を進めた。よもぎの家族は、その後もポツリ、ポツリと小径の脇に佇んでおり、私は見つける度にそっと近寄り、同じように、その中の何本かを頂く。ありがとうね。
ふと顔を上げると、舗装された道路が目の前に迫っていた。その境界線に、ひと際美しいよもぎたちが佇んでいる。彼らと静かに向き合ううちに、胸の奥で、これで充分、という声が響いた。私は左手のひらをいっぱいに広げ、彼らが落ちないように、指の関節を微妙に折り曲げ、最後の仲間を包み込む。そして、足はふらりと右へ踏み出し、私は日常の景色へと帰っていった。
マンションの廊下には、相変わらず澱(よど)んだ臭いが漂っている。何の臭いだろう。階を上がるごとに濃くなるその正体に、ふと眉が寄る。けれど、外から連れ帰った澄んだ空気を纏っているおかげか、わずかに心がほどけていくのを感じる。朝散歩で清められた私のカラダが、ある種の免疫をつくっているのか。あるいは、私の鼻と心はよもぎのかほりで満たされ、それ以上なにも入るスペースがないのか。そんなとりとめのない思考を頭の片隅に巡らせながら、脳内の大部分では、この緑の収穫物をどう料理しようかと、現実的な方法を探していた。
干してお茶にするのが王道。でも待って、昨日炊いたもち米二合があるのだから、よもぎ餅になるのではないかしら。いやいや、もち米を餅にするには、相当シッカリつかないといけないわ。そこまでのエネルギーが、今の私にあるかしら。。
靴を脱ぎ、台所で小さなボウルの中へよもぎの塊をドサっと入れ、蛇口をひねった。朝露で埃は落ちているだろうけれど、細かな土がついているし、小さな虫がひそんでいるかもしれない。もしかしたら犬のおしっこがかかっているかも。うわ、それは勘弁、と私は身震いし、洗わなくては、と心をきめる。清らかな里山で摘んだなら、私は洗わずにそのまま干す。でも今回は、都会の、誰でも通れる道なのだから。
よもぎが離れた左手は、驚くほど冷たかった。上着は玄関に掛け、ズボンを脱ぎながら浴室へ向かう。私の、帰宅後の儀式、それは「塩で足を洗う」こと。もう何年も、私という個体を保つために続けてきた、大切な習慣。世間の、手洗いうがいという常識を、私はこの儀式に置き換えている。自分を整える方法は、人それぞれでいい。長年の経験から、自分にしっくりくるコトを見つけるのが何よりも大切だという結論に至っている、今のところ。
本日の恵みは、ふたふさを朝サラダの彩りへ。残りは古紙の上で、のんびりとひなたぼっこへ。部屋の空気は、よもぎの野性味あふれる香りと混じりあい、ゆるやかに漂っている。今朝の、さわやかな風の記憶がひとつ、白い壁に染み込んでいく。私はその真新しい白さを眺めながら、深呼吸をした。
2026年5月9日土曜日 朝のこと





